『アサヒカメラ』の休刊が発表された6月1日は、皮肉なことにちょうど「写真の日」だった。とはいえ休刊の噂は、すでにその10日ほど前からSNSで流れていたから、意外とショックは少なかった。以前から不振だったカメラメーカーの業績がコロナ禍でさらに悪化していたから、広告出稿の激減は容易に予想がついた。
その前触れもあった。4月には写真雑誌『カメラマン』(モーターマガジン社)が5月号を最後に休刊しており、5月には銀座ニコンサロンの閉鎖も発表されたのだ。ことに後者は半世紀以上の歴史のなかで、企業メセナの先駆けとして高い評価を受けている。それに加えての『アサヒカメラ』休刊は、ひとつの時代がはっきり終わったことを突きつけてきた。
改めて振り返ると『アサヒカメラ』の誌面は、常に網羅的だった。つまり写真作家が作品を発表できる舞台であり、信頼すべきバイヤーズガイドであり、有望なアマチュアが競い合うコンテストの場でもあったのだ。また同誌が1975年に創設した、優れた新進写真家を選出する木村伊兵衛写真賞は「写真界の芥川賞」とも形容されている。
このようにシリアスな写真表現からホビーとしてのカメラ趣味までが同居した、同誌のような総合写真雑誌は諸外国に例がない。筆者は1990年代に『アサヒカメラ』の編集長を務めた人物から、同誌の路線とは「中華丼」だと聞いたことがある。様々な食材を一皿で楽しめることに、その存在意義があるとのことだった。こうした路線は曖昧だとの批判もあるが、様々な写真愛好者の交流を促し、写真文化を豊かに耕してきた。このことは同誌のバックナンバーを辿るとよく分かる。それは日本の写真史についての第一級の史料となっている。
筆者は、創刊90年を迎えた2016年から翌年にかけ「アサヒカメラの90年」を同誌に連載した。そのさい、同誌の展開が、日本の視覚文化全体にも影響を及ぼしているという事実を改めて確認した。まず、創刊自体がひとつの文化的事件だったのだ。
『アサヒカメラ』は、大正期に広がり始めたアマチュア写真家の全国組織「全日本写真連盟」の機関誌として、1926年4月に誕生した。ちなみに全日本写真連盟の「連盟」は第一次世界大戦後に誕生した国際連盟から取られており、同誌に対しても、写真関係者全体にとって民主的な場であれとの期待が込められている。
一方、当時の朝日には、各支局と地元のアマチュア写真家の連携を強め、紙面のヴィジュアル化を進めようという狙いがあった。この方針はたいていの新聞社に共通する戦略で、戦前戦後を通じてアマチュア写真家の組織化が試みられてきた。ことに戦後は『サンケイカメラ』(産経新聞社)や『カメラ毎日』(毎日新聞社)など、新聞社系列の写真雑誌が林立する時代もあったのである。
その先駆者として『アサヒカメラ』は、アマチュア写真家の質を積極的に変えていった。当時のアマチュアは、絵画的な表現を追求する“芸術写真家”だったが、様々な企画を通じ写真の社会的活用についての意義を啓発したのだ。
同誌の主導で開催された1931年の「独逸国際移動写真展」は、その最たるものだ。社会的活用からデザインと芸術に至るまで、欧州の写真動向を実作で展示し、日本のヴィジュアル・コミュニケーションが近代化するうえで重要な役割を果たしている。
戦前における同誌の最盛期は、この年から日中戦争が始まる1937年前後だったといえる。誌面には自由さと新しい提案が毎号のようにあり、発行部数も10万部を超えた。
だが日中戦争が始まると急速に方針が変わり、報道写真を推奨する立場へと急速に傾斜したのだ。報道が国家宣伝のなかに組み込まれた当時、社会化してきたアマチュア写真家をそこに組み込むことが同誌の役割となったのだった。