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『アサヒカメラ』休刊が物語る、写真文化の変容とその行方② (「web論座」掲載 2020年6月25日 再掲)

2020-10-13||鳥原 学

「中華丼」路線の可能性と写真雑誌の限界

『アサヒカメラ』は日米開戦の翌1942年4月号でいちど休刊し、1949年10月号で復刊している。敗戦直後からカメラメーカーが急増し、写真趣味も再び活性化していたから、同誌は待望されていた。この間、有力な写真家や元編集長らが朝日から同誌の名義を買い取り、その手で復刊させようという計画もあったと聞く。

復刊のさいに掲げられたのが、写真家の社会的姿勢を問う「シャッター以前」という言葉である。誌面の柱は海外のフォトジャーナリストの作品や動向であり、日本人の主軸には木村伊兵衛が据えられた。木村は水を得た魚のように活躍した。その貢献度は、1957年から同誌の専属写真家になったことでも分かる。こうした例は他の雑誌にないものだ。さらに、木村がその地位のまま1974年に亡くなると、すぐに木村伊兵衛写真賞が創設されている。

この1950年代、ライバル誌の『カメラ』(アルス)や『フォトアート』(研光社)は土門拳を擁して「リアリズム写真運動」の母体となっていた。写真雑誌は社会派の木村と土門、さらに濱谷浩ら大正世代を中心として、新しい映像的なセンスを持った長野重一、奈良原一高、東松照明らが登場。さらに鋭敏な感性を持った若い広告写真家が作品の発表を始め、誌面はさらに活気を呈した。

だが1960年代後半になると、『アサヒカメラ』には、葛藤が表れ始める。このころ前衛美術がより批評性を強めた「現代美術」へと移行するのと同じく、写真表現もまた「現代写真」と呼ばれる傾向を強めた。学生運動が先鋭さを増して「自己否定」叫ぶのと呼応するように、若い写真家たちも写真であることの意味を問い直すようになった。何気ない日常のシーンに目を向けた静かな「コンポラ写真」が登場し、中平卓馬や森山大道らは制度化された写真表現にアレたりブレたした画像で挑んだ。加えてポップアートやコンセプチュアルアートの美術家が写真作品を積極的に発表するようにもなっていた。それら作品の掲載は専門家筋には高い評価を受けたものの、読者の大部分であるアマチュア写真家には難解だった。部数もはっきりと下落傾向を示した。当時の誌面には読者からのクレームが掲載され、対談ではベテランの写真家が極めて率直に苦言を呈している。

それまで指導的だった写真雑誌のあり方が、改めて議論された。新しい写真表現のあり方を積極的に示すべきか、それともホビー的な部分を中心に押し出すべきか。結局『アサヒカメラ』はその中間的な立場、つまり、さまざまな要素をバランスよく器に盛るという「中華丼」路線に立つことになった。この路線の正しさを確信させたのは、1985年の『カメラ毎日』休刊だった。

同じ新聞社系のライバル誌は現代写真の動向をいち早く取り入れ、また新人には積極的に誌面を割くなど、読者から熱い支持を集めていた。また1974年にはカリスマ的編集長の山岸章二が、ニューヨーク近代美術館での「ニュー・ジャパニーズ・フォトフォトグラフィー」展の共同キュレーターを務めるなど、世界に向けて積極的に発信もしている。こうして時代を先駆してきた同誌の休刊は、他誌に衝撃を与えずにはおかなかった。それは写真雑誌というメディアの限界を、はっきりと示す出来事だった。

 

「総写真家時代」に迎えた苦境

1990年代以降、つまり平成に入ると写真をめぐる風景はまた変わった。その主たる要因として写真表現の現代美術化、女性の写真家の活躍、そしてデジタル化の三つを挙げたい。現代美術化は、まず美大や芸大出身の写真作家が注目されたところから始まっている。全国的に美術館の開館が相次いだこともあって、展示表現が作家の評価にウエイトを占めるようになった。次に、団塊ジュニア世代にあたる女性たちの活躍が、圧倒的に男性目線な写真表現のあり方を揺さぶり始めた。もちろん『アサヒカメラ』もこうした動向は取り上げたが、そのテンポは遅かった。と言うよりも、同誌の誌面作りは、このころ保守化が進んでいる。

理由のひとつは読者層の高齢化が進んでいたことで、ことにリタイア前後の中高年男性に的を絞った企画が多く立てられている。この方針は高級カメラの主要な顧客層と一致していたから、営業面は好調だった。とはいえ、それだけに優れた新人写真家を選出する木村伊兵衛写真賞などの発表は、なにか場違いな感じにも見えたものだった。だが写真雑誌を揺さぶった最大の要因は、もちろん急速なデジタル化だ。2000年代には携帯電話とカメラが結びつき、写真の共有サイトやSNSが急速に一般化し、ついに誰もがカメラマンになれる「総写真家時代」が到来したとも言われた。私たちと写真との関係においては、ジャーナリズムや美術も含め、個人のライフスタイルに写真がいかに寄り添っているが重視されるようになった。こうした多様な変化を『アサヒカメラ』という器に、バランスよく盛りつけることは難しくなった。

 

なにより大きな問題は紙の出版市場も、カメラメーカーの数も業績も急速に縮小したことだ。報道によれば、ここ数年の『アサヒカメラ』の販売部数は平均2~3万部。それは全盛期の2割程度という数字になるだろうか。むろんカメラメーカーの広告への依存度は大きくなったに違いない。そのメーカー各社が、フラッグシップと呼ばれる最高級機を投入し、宣伝活動に注力するのがオリンピックイヤーである。だが、その開催の先行きが今や見込めない以上、広告出稿はそれまで以上に絞られたのは当然だろう。『アサヒカメラ』にとって最後のヒット企画になったのは、2010年代後半に組まれた著作権や肖像権についての特集だろう。それは久しぶりに同誌らしい意義ある啓発だと思えた。誰もが撮影者にも被写体にもなる「総写真家時代」になり、写真にまつわる権利意識は高まっていた。それゆえ様々な写真ファンを繋ぐことができたのだ。
同誌の存在意義とは、このようにさまざまな写真ファンの接点となることだったはずである。中華丼に例えるなら、多彩な具材が口中で混じり合い、新しい味が生み出される。日本の写真文化が世界的にもユニークなのは、そのようなコミュニケーションが写真雑誌などによって図られてきたからだと思う。
しかし、これから写真のコミュニティは、その嗜好と立場によってますます細分化していくことになるだろう。「美術としての写真」、「報道としての写真」、「ホビーとしての写真」、さらに「そのサブジャンルとしての写真」などと言ったように。『アサヒカメラ』という器は、平成時代にどんどん小さくなっていったが、それでもこうした流れの中で、より広い目で写真の社会的な位相を捉える姿勢は保っていた。こうしたメディアの喪失は、やはり惜しまれるべきだろう。

(了)