あらためて読むと、1994年の時点で、平木さんはわりと正確に写真の行く先を見ていたのだと思う。この頃はまだ印刷メディアの衰退が始まる直前で、全盛期だったわけですが、はっきりと「オールドメディアである写真」という捉え方をすでにされていて、その可能性を語っている。
また「(写真表現の)社会性が非常に強くなっている、ヘタするとナショナリズムとかにいっちゃう」や「写真っていうのはそれだけ身近なものになってる。ただ身近なものになってるというのはそれだけ大事なものになってる」なども、考えてみれば思い当たることは少なくない。このパートは、そうした部分も含めてお読みいただきければ。
さて、ヨーロッパの問題でいきますとね、こういう人もいます。さっきのウィトキンは、神だとかそういった抽象的な善悪へのリアクションだったんですけど、この人の場合は、パトーという人なんですけど、この人のテーマは古くなったといえば古いんだけど、アパルトヘイトに対する抗議のイメージなんです。いきなりこんなもんだしてスミマセンが、わかりますかこれ。
日本にも里文博という人が大阪におりまして、いきなり、難しく言うと性器の写った写真を送ってきたりするんですけど、これはジョン・パトー。自分でやったりするんですけどね。睾丸の部分ですね。股ぐらのところくーっとあれして撮った写真です。これは毛むくじゃらのおなかに腕を当ててるだけなんですけどね。こういった非常に自分の体で怒りだとかそういう感情を表現した。
あの写真はね実は部品なんです。
町の道路沿いなんかに看板がありますね。あそこにざーっと貼っちゃうんですよ、あの写真を。それでもってメッセージするっていうか、ようするに、こういうふうに。これね、今見たような写真なんです。それがこういうふうな所に腕をくーっとしてる写真ですけどね。こういうビルボードっていうか、看板作っちゃうんですね。それを撮ったものも作品なんですけど、こういうインスタレーションの光景を作品とするっていうのは大勢の人がやってます。この人もかなり注目を集めた作家なんですね。
アメリカとヨーロッパとアートを比較するような形で、まあ比較ったってそんなに大勢じゃないんで厳密なものとは言い難いところがありますけど、ようするにヨーロッパの写真状況としてはかなり、社会性っていうか、隣の人、隣人に対する思いだとか、日常性の中の社会性だとかまで含めて。
それからもう一つ社会性の大きなファクターとして歴史だとか文化の文脈みたいなこと、そこを意識する社会性が非常に強くなっている、ヘタするとナショナリズムとかにいっちゃうと思うんですけど。芸術っていうものが個々人の感情の表現だとか喜怒哀楽の外化、外に出していくことじゃなくてね。もっと人間としてどうあるべきなんだろうという。それはよくあるべきか悪くあるべきかとかよくなる方向とか、そういうことじゃないんですね。
例えば哲学者のジル・ドゥルーズっていう人なんかも、そういったことで人間を考えている。これ難しいんですよね。ドゥルーズなんかにいっちゃうと、ややこしくなっちゃうんでほっときますけど。やっぱりそうですね、時代が今変わりつつ、動きつつあります。
で、さっきいったように戦後体制、第二次大戦で生まれた東西関係、二極対立は崩れました。アートの世界でも主導的な役割を果たしていたアメリカの地位が、若干後退しました。逆に日本もそうだけれど、日本よりも他のアジアの第三勢力がどんどん強くなってきている。ヨーロッパそのものは一元化というか、いわゆるヨーロッパ、汎ヨーロッパ的な共和国を作ろうという体制にあるわけですね。
そういうふうな動きのなかで、戦後しばらく行われてきたような自己の問い直しだとか、そういったことよりも、自分と社会、社会の中の私、私は社会の一員といった、あるいは歴史のヒトコマといったようなアイデンティティ、自分自身を求めるという傾向が強くなってくるだろうと思いますね。
それともう一つあらゆる状況の中で、ヨーロッパでももともとそうなんだけれども、核家族化というか、個人主義がどんどん強くなっていくというか、隣付き合い近所付き合いといったようなことがだんだん希薄になっていくわけですね。
まあ隣付き合い近所付き合いといったレベルだけじゃないんだけど、人と人とのコミュニケーションをもっととっていかなきゃいけない。テレビだとか、あるいはフランスはミニテルっていうパーソナルなパソコンみたいなものが家庭の中に入ってます。いわゆるマルチメディアの機器ですけどね。日本でもそれこそパソコン通信やってる人が随分いるし、これからますますアメリカからインターネットなんてものが入ってきて、個々人の領域っていうか、居ながらにして世界を知る、把握するっていう、そういうスタティックな人間関係が増えて行っていると思います。
そういう中で、写真といったものを使ってあるいは演劇や音楽なんかもそうだと思うんですけど、すでに新しいものでも百五十年、写真は百五十年ですけど、音楽や演劇に至っては何百年、もとより何千年の歴史を持ってるものもありますね。そういったものを使ってフェスティバルをやったりして、人と人の出会いを、それこそ文化として行政やなんかもどんどんやっていこう。そういう方向が如実に現れてます。
で、日本でもね新たに自治体が音頭をとって文化のイベントの試みがなされてるんですけど、まだまだ社会的なレベル、市民レベルっていうのは、自発的にその方向に向かっているようには思われません。
ただ、近い将来、日本でももう少し社会的な成長っていっていいのかわかんないけど、市民レベルがアートってものを個々の感情表現だとか、喜怒哀楽っていうことじゃなくて、もう少し広い意味で、社会的な意味でっていうかな、捉えていくような方向になれば、行政なんかがやるイベントはもっと盛り上がっていくと思います。今かなり、空振りの感が大きいですけれども。
そういうところにオールドメディアである写真は比較的手軽なこともあってね。それからあの身近で手軽なんだけれども、とてもいろんな表現、いろんな大きいことができるんです。
まあ、写真って本当に身近で手軽ですよね。もう手の届く所どこにでもあるわけです。ぼくらの生活だったら。それに、写真のことなんか普段そんなに考えないでしょ。写真好きな人はどういう写真撮ろうかとか思ってるけど。新聞に載ってるカットが、これ写真だなあといちいち見てませんよね。絵柄の中身を見る訳です。週刊誌とか、なんでもそうです。写真っていうのはそれだけ身近なものになってる。ただ身近なものになってるというのはそれだけ大事なものになってるということなんです。身近だからこそどうでもいいんじゃなくて、身近だからこそ本当は大事なんですね。その身近さの中から、一応文化の正体を知るような、そういうイベントっていうかな、仕掛けがなされるのは当然のことだと思うんです。
そういう意味でこれからは、写真の行き着くべき道っていうのは、僕はこうだとは言えませんけど、もうちょっと社交性を持つ、変な言い方ですけどね、アートとして展開していくのではないかと思います。現にヨーロッパのアーティストの間ではそういった方向がかなり浸透しつつあるというか、そういう読み方をしても間違いじゃないんだなという見方がされつつあります。
以上、次回第10回に続きます。もう少し続く。