昔の写真雑誌を見ていると、どの作家がいつ何を発表したかに目が奪われる。けれど、なかには、作品に応答する評にもまた味わい深いものが多数ある。
以下は、写真評論家の先達である吉村伸哉さんが『日本カメラ』1960年10月号に掲載された植田正治さんの「秋のうた」について寄せたもの。このときの作品は1971年に、写真集『童暦』(中央公論社の 「現代の映像シリーズ」第3巻)にも収録されている。当時の、若い写真家たちが植田さんを再発見する契機となった写真集として知られる。この写真集は一般に言われる植田調、1950年前後の浜辺と砂丘とを舞台にした演出写真からの新たな展開を示すものだ。民俗と風景への興味がわき、山陰を訪ね歩きながら模索していった軌跡ともいえる。そのなかで描き出された詩情が、写真雑誌の編集者、寄稿者である評論家、そしうて若い世代の写真家の心を揺さぶったのだろうとは思える。
吉村さんの作品評から、その点が垣間見えてくるよに思う。こういう文章が埋もれてしまうのは惜しいものです。
ある人が、「つまらない写真を見ても何のコトバも浮んでこないが、いい写真はあとからあとからコトバが浮んでくるね」といった言葉を、こういう仕事に携わっている関係で筆者もしみじみと共感して聞いたことがありました。
ところで筆者がこの欄のレギュラーのひとりになってから、もうかれこれ3年近くなります。その間、いままでに植田正治の作品を解説したことが2回ありました。これで3回目というわけです。あらためて彼の写真をみていると、いいたいこと、感じたことを全部書いてきたようで、それでいて何か言い足りない、もどかしい感じを拭い去ることができません。つまりコトバがあとからあとから湧んでくるのです。
ところで、昨年の本誌10月号に同じく植田正治の作品「山陰秋譜」のシリーズが掲載されたことがあります。ご存知の読者も多いことと思います。じつは、あのときの作品発表が作者自身にとってはたいへんなエポックになったそうです。あれがひとつの啓示になり、契機にもなって、彼自身自分の今後進むべき道を再確認した、と編集者にももらしていたそうです。
それで、こんどの「秋のうた」は、その「山陰秋譜」の凝縮というような意味あいも兼ねて写したものだそうですが、どうしてどうして、たんなる延長線上だけで解釈しきれない発展や、飛躍がみられるのはたいへんよろこばしいことです。
日本人、とくに日本のインテリのローマン主義嫌い、抒情詩嫌いや感傷嫌いには一種の自己嫌悪に似た心情が介在しているように思えてなりません。そのせいかどうか、筆者も、植田正治の写真を見ているとあまりにもよくわかりすぎ、感情的に共感できすぎるので、かえっていやになり、反発さえしたくなるほどです。
しかし、理性的にはどう評価しようと、感情的にはしらずしらず共鳴し、じっと見つめていると痛烈な哀愁で胸がしめつけられるような気持になってくる自分をどうしても抑えることができません。
また、はたしていままでの誰が植田正治ほど鮮やかにそして鋭く、日本人的心情の本質を形象化したかという探索になるとその結果は、彼の作品のユニークを証明するだけに終るでしょう。日本人は、その風土の貧しさのゆえの独自なローマン的心情を幾百千年にわたって強固に発酵させつづけてきました。そのローマン主義がえがく彼岸は、風土の貧しさ、それゆえの想像力の貧しさともあいまって、退屈な、モノトーンのうら悲しい色彩でいろどられていました。だが、豊饒さがないかわりに、それゆえの厳しい深さもあるはずなのです。
筆者は、植田正治はその厳しい深さを見つめ、それと対決しようとしている数少ない日本人のひとりだと声を大にしていいたい。
ここでは一枚一枚の写真について解説はしません。ともあれ、彼の写真には民話への遥かな郷愁がある。それだけは感じとっていただきたいと思います。