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学内のポートフォリオ・コンペを終えての個人的感想。

2019-12-17||鳥原 学

講師を務めている写真学校では、毎年一度、全学イベントとして「ポートフォリオコンペ」というのを実施している。テーマは自由、自作を写真集などにまとめ、一堂に審査するのだ。その審査会が先日あった。

ここ最近、提出された作品を通して感じているのは、家庭生活の体験が、年々過酷になっているケースが増えているんだなということ。
家庭の最小単位は親子ではなく夫婦なんだが、それが崩れやすくなっていて、未熟な子どもたちはその状況についていけない。なんならそれが自分の責任だと感じ、自己否定的な感情を過剰なレベルにまで高めてしまう。そして、それをケアするほかの大人が周囲にはいない。
その大きな傷を、写真によって、なんとか見つめ直し、自分を掴み直そうと足掻いている。作品を見ているうちに、そのつたない声が突き刺さってくるようだ。

もちろん、かつてもこの問題はあったけど、10年前に比べてそれを抱えている生徒が多すぎる。背後にあるのはもちろん日本社会の、不健康な変質だと思う。
いまの親の世代はまさに就職氷河期で、社会に出ても、安定したライフコースをあらかじめ喪失した世代になる。最近になって、それが社会問題と認識され、政治的課題として取り上げられるようになった。ひとつの世代の喪失が、次の世代の喪失を生んでいるのではないか。だとすれば、写真学校の先生にできることなんぞ、あまりにも小さい。

 

もう少し具体的に言ってみることにする。心に残る生徒たちから聞いたライフヒストリーを大雑把だがまとめてひとつの像を描いてみると、その典型は下記のようになるかもしれない。

両親のどちらかは非正規雇用で、職についてもセーフティーネットがない立場にある。しかし専業主婦家庭があるべき「規範」として刷り込まれているから、理想と現実のギャップに追い詰められる。また共稼ぎだと妻の負担が非常に重くなり、その結果、妻が夫にあいそをつかして見限ることも多い。夫婦ともども相談する相手もなくてストレスが募り、そのプレッシャーがしつけとして子どもに厳しい体罰を与えたり、ネグレクトすることに転嫁されていく。

子どもは両親を繋ぎとめようとするが、心が通わぬ二人を止められるはずもない。親はあるところまで子どもに現状を隠そうとするけれど、どこかで必ず破綻するから、それを突然知らされたときのショックはたいへん大きなものだ。だが彼らにとって身近に頼れる大人は少なかった。

無条件の愛を受けられず、家庭で居場所がなくなると自己評価が下がり、クラスではスクールカーストの下に位置して、いじめを回避することに汲々とする。鬱になり、不登校になり、社会との接点を少なくしていく。18歳になって進路を決めろと言われて、消去法で選ぶのが、ときどきSNSにあげていた写真。それは逃避場所としての、もうひとつの現実をつくる作業だった。

しかし多額の奨学金を借りて入った学校でそれを教員に見せると「社会性がない。もっと視野を広げろ」などと言われる。彼らの写真には、以上のような意味での同時代が隠されているが、それを見抜き、描いたことに希望を見出せる人は少ない。社会という場所が、じつは彼らの立っている場所だと気づかれない。指導はあるけど、本当の意味での対話ができていない。

結果、その教員とは私自身のことだと思い知らされてしまうのだ。