で、その写真ですけれども、最近じゃあそこでどういう表現が展開されてきているか、どういった方向性があるかってことをいくつかの例を見ながら、考えていきたいと思います。この写真はもうご存じだと思うんですがシンディー・シャーマン。
僕はもっと昔の奴の方が面白いと思うんですけど、面白いっていうか参考例になったかもしれませんけど、シャーマンって写真家はアメリカの人です。写真家というかアーティスト。本人は写真家のつもりはあんまりというか、全くないわけですね。けれど、写真という手段を使っているので、写真のジャンルで語られることも多く、今日はつきあってもらうことにいたしました。
それでシャーマンという人は、年齢不詳というか、年も明かさないんで、わりかし名前もシャーマンなんていって、本名なのかなぁ……。謎めいた活動をしている人です。プライベートな面をなるべく出さないようにしている。で、この人はもともとビデオアートかなんかをやってまして、ビデオインスタレーション、ビデオを置いて、ビデオパフォーマンスというか、自分がその中に出てパフォーマンスするようなものを作ってたんです。
で、あるとき自分の記憶の中にある映画のワンシーン、それを友達に演じさせてそれを作品にしようと思ったけれど、友達やモデルを使ったりしたらうまく感じが出ない、それなら自分でやっちゃおうっていうんで、最初はモノクロでしたけど、自分でずーっと記憶の中の、記憶のワンシーンというか、昔見た映画とかいったもののシーンとかを再現しながら自演自作でいわゆるセルフポートレートを撮ってたんです。その辺は前回笠原さんもやったのかな。
ただね、この辺から話がわかると思うんですけど、彼女がやったのは始めは映画とかそういうものだったんですけど、かなりミニマムにっていうか、自分の記憶の内側に内側に入っていってしまった。
確かに写真っていうのはカメラ向けるのは外に向けるんですよ、普通は。普通は自分がいて、遠近法の世界だね。自分がいてカメラをするっていうのは、外側にまなざしを向けることなんですよ。彼女の場合は自分の内側に向けていったわけですね。内向的な表現と僕はみてました。自分のメタモルフォーゼをやっていたんです、ある時までは。
ですから自分のメタモルフォーゼの可能性をずーっとやっていて、それはいろんな役回りを演じたり、あるいは精神、死生観っていうかな、自分が非常に醜い顔に変貌し、なおかつそれが死に至っていくようなストーリーを辿っていったこともあります。で、この辺りはまだそこまでいかないところですね。女優だとかそういったイメージ、リッチで豊かなアメリカのイメージなんですね。ところが変わるんです。
これはね、三年くらい前になっちゃいますけど、オランダのアムステルダムのステデリックっていう美術館があります。そこで「エネルギー(※Energieën:エナジーズ、1990年)」って題の美術展があったんです。そこで、展示されたものです。彼女は丸い部屋を作って、丸い部屋の中の湾曲した壁の中にルネサンス風の絵画に身をやつして、自分がいるんです。ああいうふうにね。
それでようするにこれはたとえば森村泰昌、彼のように名画の云々、美術史の文脈でやるんじゃなくて、もっと文化のおおもとの文脈で彼女はやってるんですね。というのは、自分の、記憶の内側内側に入ったとすると、やっぱ多分行き着くところは先祖とか祖先とかDNA的なところにいったんだと思うんです。生とか死とかをテーマにしちゃって、その後にでて来たものがいわゆる先祖っていうか、ルーツみたいなもんですね。それも単なる文化的なイメージなわけです。
で、アメリカの人っていうのはヨーロッパに対するある種の複雑な感情を持ってます。これはどういうものかっていうと、ヨーロッパとは違うんだという劣悪意識(優越意識)がある。アメリカの人達は、ヨーロッパに見切りをつけて出てきた人が多いわけです。今の世代じゃないですよ。もっと前の時代。あのロバート・フランクにしてもスイスは実は退屈でつまらなかったというわけです。だからアメリカに行ったんだとはっきりいっています。
ところがやっぱり彼らは文化という文脈ではやはりヨーロッパを否定しきれない。そういった意味から自分たちの文化的血脈を振り返るときに、どうもヨーロッパがでてくるわけですね。文字通り自然なことだと思うんですよ。そういうふうにして、やっぱりこの人はミニマルな人だと思います。ミニマルって表現しなければならない最小単位を紡ぎ出して行くと、ルーツのとこまでいっちゃったんですね。そういうふうなことをやっていくメディアとして、手段として写真を彼女は用いているわけで、やはりこれは現代においては、僕はわりかし平凡だと思いますが、アメリカの女性が自己のアイデンティティーがからんでいった創作だと。
僕はこのシャーマンと、あとから見る作家は内向的、内側に向かう、その果てには裏返っちゃう方向の写真家やアーティストがいる。それはあの一九八〇年代後半を象徴してるなと。
どう意味で象徴してるかというと、時代によっては外に向かったり、内に向かったり、プラスにふれたり、マイナスにふれたりするわけですね。どっちがプラスでどっちがマイナスかっていうのは本当に難しいから複雑には言えないんですけど、ただわりかしネガティブな時代だったという風に相対的には感じています。だけどそれはアメリカって国が、それこそエイズの問題もありますけど、いろんなことでニューヨークそのものが元気がなくなっていったというかね。
そういったことを見てるとわかるように、アメリカっていう国がさまざまな意味におけるリーダーだった時代が済みまして、新しい時代、歴史のファクターが移り変わる時に出て来た、これがシャーマンだなあと、大袈裟ですけど。
案の定その後、いわゆる東欧革命が起こり、EC統合問題が具体化したりとか、この写真なんかはいわゆるEC統合問題が具体化していくような、その中で出てくる。だからアメリカンテイストじゃなくて、ヨーロピアンテイストなんです。さて次ね、なんか山瀬まみみたいですね。けど照れてますよね、これくらい照れてればいいんだけど、森村とかはね……。

以下、作家論は第5回に続く。