Birdsinc

二世とか、ジュニアとか。ブルデュー『ディスタンクシオン』講義の書評を読んで。

2021-02-16||鳥原 学
「二世」とか「ジュニア」呼ばれる人たちと話をすると、感覚が違うことを痛感する。
数年前、何代目かにあたる出版社の社長さんから、私が本で読んだことしかない文化人に「子どもの頃から可愛がっていただいて」なんてエピソードを聞いた。羨ましいを通り越して、別の文化的生態系があることに感動を覚えたりしました。
写真の世界でも、やはり二世の雰囲気はちょっと違いますね。いろんな人から、気にかけてもらっているな、大切にされているなという感じ。本人にとってはうざかったり、複雑なものがあったりするんだろうけど。別の言い方をすれば「~村」みたいなものであり、日本的な「甘えの構造」もみたいなも見えるというか。いずれにしても、アイデンティティの基盤となるものをあらかじめ持っているというのは、幸せなのかもしれないなと思います。

出身地も出身校も、そんな属性に縁がなくやってきた自分には、いまだにふわふわとした「よそ者」的な感覚が抜けません。気楽なぶん、やや遠目に写真の生態系を眺めているのかもしれないなと思ったりします。

「ブルデューはさらに、社会には人の無意識的な立ち居振る舞いすべてに差があり、話し方に言語感覚、休みの日の過ごし方まで、日常生活の一挙一動に格差があるという。確かに、認めるのは悔しい「育ち」が体に染み付いているというのはわかる気がする。公立中学からいきなり中高一貫の私立高校に入ったり、地方の公立高校から東京の大学に入ったりと、自分の属する集団が一気に変わったときに感じるあの拒絶感だ」(奥みんす「格差はお金だけじゃなかった! この世はライフスタイルの差異を競いあう闘争だ」(ダ・ヴィンチより)以下、リンク)