フォコンに続いて平木収さんが上げたのはスザンヌ・ラフォン。イメージはどのように意味を生み出すのか、言葉と結びつくのかを探るコンセプチュアルな作品で知られているが、この1994年頃はその指向がインスタレーションという形で、より明確化している。平木さんの言葉にはそれに対する違和感も出ているようだった。
美術館という制度が、写真作家にその展開を促したという側面もあるのですが、平木さんはもう少し写真とその表現を広い視野で見ていたと感じることがありまった。生活世界と地続きなものとして、彼は捉えてたのだと思う。
次の写真家はその点、またちょっと違ったスタンスで現代をリード、ぐんぐんひっぱってる人の初期作品です。
これは本当はインスタレーションが難しいんで、アットランダムに入れちゃったんで、誤解を生じるかもしれないんですけどね。シュザンヌ・ラフォンっていう写真家で、女性です。年齢は明確じゃないんですけど、だいたい一九四八~九年生まれ五〇年くらいかな。四〇代中頃までの人です。
この人の場合、続けさまに見てください。こういうファミリーな写真なんです。これモデルはね、なんのことはない、友達だとか、この人のパートナーがアルルの写真学校の先生をやってるんですけど、その学生だとか、近所の人とか。タイトルも別に問題じゃないし、人物も名前も役柄も問題ではない。
こういう非常に、なんていうかな、ありふれているけれども、すごくやさしいっていうかね、ぬくもりみたいなものがあるような、そういう写真を美術館の部屋をたっぷり使ってね、これくらいのプリントでドーン、ドーンと掛けていって、真ん中当たりにこういうプリントをドーンと、これなんかそれこそラファエル前派の絵を思わせるようなそういう表現なんですけどね。
この人なんか内向的じゃないんですよ、ようするに。もっと隣人だとか、一緒に生きてる時代の人、その存在に自分を問いかけているっていうか、だから、「きみたちがいてぼくがいて」、というギャグがあったんですけど、舟木一夫の歌なんですね。それを吉本の芸人がギャグにしてたそうなんですけど、きみたちがいてぼくがいての世界なんです。
写真家として何か社会をあるいは何か観念を提示するんではなくて、自分がいることを自分で確かめてその確かめた行為を提示しちゃうんですね。それをやっぱり自分なりの好きなやり方、面白いと思うやり方、楽しいやり方でやっちゃう。そういう方法論です。ですから、難しく解釈しなくてもいいのと、見る人が無理やりその人の心の内側に入っていかなくてもいいという、そういうメリットがあります。
ということは、社会情勢と無理に結び付けることはないんですけど、EC統合じゃないんですけど、南北の緊張の緩和じゃないけどね。腹の探り合いや心の探り合いみたいなものよりも共存というか、一緒にいて、見つめ合って、お互いの存在を確かめあって、そのの中に、生きていく実感を確かめる、そういう方向性なんですね。とりとめて誰とっていうわけじゃないんだけど、出会いって問題があるし、一瞬の楽しみ、そういった刹那的な感覚のファクターに取り入れられる。そういうふうな表現をしているシュザンヌ・ラフォン、この人は非常な人気を博しました。

ただこのごろですねあまりにもコンセプチュアルになってね、今やってるのはジェスチャーなんですね。本が手に入らなかったんでカタログみただけなんですけど、お金というものをテーマにして、人々がお金というものをどういうふうに扱うか、手の動きやなんか、一生懸命ジェスチャーやなんかでやらせては、それを写真に撮ってるんです。
というのもそれが社会なんです。人間って社会的生き物で、お金に対してはこういうふうにしてるんですよ、問いかけている。かなり後退した表現と言えるかもしれないけど。前はもっと人間性の中でのゆるやかで大きな問題を表現してたけど。最近はやっぱちょっとマニアックになって、キュートに、キュートにというよりは鋭くなってくるのかな。末梢的なものになってきてます。ただこの人も、空間の使い方が非常にうまいので、美術館とかそういったところで、発表の機会が雑誌とかよりも、美術展ですとか、ギャラリーというか美術館ですね、全体を使ってというような大掛かりな空間アーティストのような感じです。
ひとつ傾向としてあるのは、この人が代表というわけでもないのですが、写真家というのは単に壁面に写真をかけるアーティストあるいはメディアに画像映像をのっけるアーティストではなくて、空間を演出するというか空間そのものを創造するアーティストというような形になりつつあります。
実はその先駆をやったのは、パリでも日本人なんですけど田原桂一です。田原はそう言った面ではやっぱり先駆的でした。で、彼がフランスで成功し得たのも、単なる映像のアーティストというよりも、空間演出というか、空間そのものを創造するアーティストというふうに自分を持っていったから、そういうのの影響も実はこのあたりに出てくるんですね。
(スライドに戻って)この写真もいいでしょ。何がいいかってね、写真なんですよ。写真がすごく、なんていうのかな、絵がいいっていうかね、上手なんですよ。昔の価値観からみても。ぶれてるけど感じでてるでしょ。うまいんですよ、やっぱり。すごく微笑ましい一瞬をうまーいこと繋げながら、ただ、子供がかわいいよっていう、子供が好きよっていう、そういう表現じゃないんです。だからこの写真もそうなんだけど、真っすぐ正面から見て、かわいいなっていってるんじゃなくて、目の端っこに入ってくる時の心地よさってありますね、自分の子供じゃなくて近所の子供が庭で遊んでるのを見て、いちいちそこにいってかわいいねとは言わないけどいいなと。そういったくらいの余裕ですね。
彼もサッカーとかで遊んでる子供です。でもポートレイトとしてもかなり繊細な感じがして面白い写真ですよね。この人の場合、パッサージュとイマージュという映像の総合的な展覧会(『イメージのパサージュ(移行)』展、1990)がポンピドゥーであったんですけど、写真家としてただ一人だったかな、そっか、何人かいたけど、フィーチャーされて、展示されました。
以上、話は次回(第7回)に続く。