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アサヒカメラの90年 第1回 【創刊前史――】 1920年代の「写真ルネッサンス」

2024-11-25||鳥原 学

創刊号を読む

アサヒカメラ」は1926(大正15)年4月に、東京朝日新聞社から創刊された。創刊号は広告も含めると全114ページで定価は80銭。判型は現在と同じだが、もちろん雰囲気はまるで違っている。

手に取ってすぐ気づくのは、表紙が写真ではなくイラストであることだ。カタカナの「アサヒカメラ」は中央に配されているが、その上の英文の「ASAHI CAMERA The Japanese Journal of Photography」というロゴが強調されている。巻末には英語による本誌紹介欄も設けられ、欧米の写真界を強く意識していたことがわかる。

肝心の内容はどうか。一般的に写真雑誌の基本的な構成要素といえば、巻頭作品、特集記事や国内外のニュース、機材の詳細な情報(メカ記事)、ハウツーもの、月例コンテストといったところだろう。創刊号も、およそそれに準じてはいる。

まず巻頭には創刊懸賞の1等を獲得した田中虎一の「柿」を筆頭に、8人の作品が網目銅板刷りで掲載されている。うち2人はオーストラリアからの寄稿だが、東京写真師協会会長の江崎清を除けば、それ以外は写壇、つまり有力なアマチュア写真団体のリーダーたちの作品である。掲載順に挙げると、淵上白陽「横を向いたポーズ」(日本光画芸術協会)、米谷紅浪「農夫」(浪華写真倶楽部)、石田喜一郎「プロムナード」(日本写真会)、福原信三「閑日」(日本写真会)となる。彼らの作品は対象の違いこそあれ、いずれも絵画的なテクスチャーを持った単写真、つまり当時の表現の主流にあった「芸術写真」だ。彼らは、これから始まる月例コンテストの審査員でもある。

予告によれば、月例は5部に分かれている、本誌編集部が第1部で、そのほかはやはり有力な写壇である東京写真研究会の秋山轍輔、福原、米谷、淵上が担当するのである。読者は、後述するような彼らの作風の違いをすでによく知っており、それぞれに部を選択して応募するというシステムなのである。

そのほかの口絵はグラビア印刷で、創刊懸賞の入選作品、東京写真研究会主催の公募展「研展」、東京写真団体連合展での優秀作品が紹介されている。どの作品の下にも、作家とタイトルの英訳が記されているのが印象的だ。創刊時の「アサヒカメラ」は主としてアマチュア写真作家が力を競い合い、交流する場であり、さらに海外に開かれた窓口であろうとしていたのだ。

その志は、東京朝日新聞社のグラフ部長であり創刊編集長の成沢玲川(本名・金兵衛)による巻頭言「創刊の言葉に代へて」によく表れている。彼は全体にやや芝居がかった調子で、関東大震災後の写真界も出版界も行き詰まりのなか「限られた読者しか持ち得ない写真雑誌を創刊する。単なる算盤勘定でないことは明か」と決意をまず語り、前年に自社が主催した「ニエプス写真百年祭」の成果を自負する。確かに、後述するこのイベントの刺激によって、樺太から朝鮮や台湾までを含む写真団体の連合機関として、全関西写真連盟と全関東写真連盟が成立した。成沢はまた、前年7月に東京朝日新聞社から発行された『日本写真年鑑』が、英国写真協会の「ブリティッシュ・ジャーナル」誌上で「写真芸術は我が英国よりも、日本に於いて、より重要視され」ている証しだと評されたと、誇らしげに綴っている。

アマチュア写真家たちの芸術革新運動

「アサヒカメラ」の創刊は、20年代を通じてアマチュア写真家たちの活発な活動がもたらした大きな成果だった。この期間について、米谷が「写真月報」(小西本店・現コニカミノルタ)誌上に連載した緻密な回想記「写壇今昔物語」で、「写真ルネッサンス」と形容したほどの高揚を見せていたのだ。では、「写真ルネッサンス」の具体的な中身とはどのようなものだったのか。

日本のアマチュア写真界は、ごく一部の富裕層や外国人によって、明治初期に誕生した。明治10年代、西暦では1880年代から親睦団体が結成され始め、すでに明治末までには北海道から台湾にいたる各地域に写真クラブがあった。

そのうち東京の東京写真研究会と大阪の浪華写真倶楽部は、それぞれ小西本店と桑田商店という大手の写真材料商の後援をうけて発展し、写壇として機能するようになる。東京写真研究会が主宰する公募による「研展」や、浪華写真倶楽部の「浪展」は表現動向をリードする、一種のアカデミーとして、芸術写真に励むアマチュア写真家たちの目標として機能していたのだった。

先にも触れたように、ここでいう芸術写真とは、印画に絵画的な効果を与えた表現のことをいう。そのために用いられたのが、ピグメント(顔料)を使う手法だった。それは光によって硬化するアラビアゴムを用いたゴム印画法から始まり、やがて印画を漂白して油性インクで濃淡をつけるブロムオイルなどのオイル印画法などが流行した。いずれも完成までにかなりの時間と手間を要するものだった。

 

大正期に入ると、趣味としての写真のすそ野が広がる。第1次世界大戦が始まる1914(大正3)年ごろには、コダック製の比較的安価な単玉カメラ、ベストポケットコダックが輸入された。このカメラはレンズフードを外して撮影すると、手軽に柔らかな雰囲気が得られたこともあって人気を博した。それまで富裕層の道楽だった写真が、大戦下の好景気のもと、増加した中間所得層の趣味となったのである。その熱は、第1次大戦後に起きた恐慌を超えるほどにまで高まっていく。「写壇今昔物語」には、当時の写真コンテストの盛況ぶりもリポートされている。米谷は各種の懸賞写真の応募点数について、明治末から大正初年にかけてはおよそ500点平均だったと記している。それが18(大正7)年以降は千点を超え、20年代には1万点を超えるケースも見られるようになったというのだ。

写真ファンが急増すると、各種の技法書が盛んに刊行される。さらにそのヒットを受け、21(大正10)年には「カメラ」(アルス)が、穏健な写真愛好者を対象にした写真趣味のための雑誌として創刊された。

このころ、質の面においても芸術写真は成熟期を迎えている。団体によって、作品の傾向が明確になり、それぞれに優れた作家が誕生した。

東京写真研究会やその流れを受けた愛友写真倶楽部は日本画的な風景の作品が多く、商都大阪の浪華写真倶楽部では都市生活の風景や静物などの作品が目立つようになる。それぞれ代表的な作家を挙げれば、東京写真研究会では野島康三や小野隆太郎、愛友写真倶楽部では日高長太郎。浪華では米谷のほか梅阪鶯里、福森白洋、瞠目すべき新人として安井仲治がいた。彼らは相互に交流し、互いに研鑽しあってもいた。21年に開催された小野と米谷の個展は、その成果と評されている。

この年は、既成の写壇に新風を吹き込む団体が登場している。資生堂の革新的な経営者でもあった福原が立ち上げた写真芸術社である。彼は弟の福原路草(信辰)、千葉医学専門学校(現・千葉大学)の後輩で現像・焼き付けに秀でていた掛札功、音楽評論家の大田黒元雄を同人として会を結成。福原は、写真の本質とは瞬間の光が対象に与えた印象を印画紙上に凝結させることだという主張を、実作と理論をもって展開し始めた。

神戸で写真館を開業していた淵上が、日本光画芸術協会を結成したのはその翌年だ。淵上らは「ラインとマッスの意識的な構造」を強く意識し、そのため焼き付けの時点で画像をゆがめたり、変形させたりするデフォルマシオンを積極的に行った。その幾何学的で抽象性の強い表現ゆえに、彼らは「構成派」と呼ばれた。

20年代の「写真ルネッサンス」とは、こうしたアマチュア写真家たちの展開が、芸術革新運動と呼べる段階にまで達したことを指している。それは従前からの展示活動の拡大のほか、技術的改良が進んだ印刷メディアによって周知された。明治期からある写真材料商肝いりの「写真月報」や「写真新報」(浅沼商会)などに加え、各写壇の機関誌が発行されるようになった。

福原の写真芸術社では、結成と同時に「写真芸術」を発行。翌年には福原の個人写真集『巴里とセイヌ』を、翌々年には『光と其諧調・福原信三写真画集』が上梓されている。後者のタイトルにもあるこの「光と其諧調」こそ、その印象主義的な写真芸術論を集約したキーワードである。淵上らの日本光画芸術協会もまた同年に月刊写真画集「白陽」を創刊して、その重厚な作品をアピールした。 このようなアマチュアたちの活発な活動は、23(大正12)年9月1日に発生した関東大震災によって、いっとき中断する。もちろん彼らはそれさえ乗り越えるのだが、そこには紙面のビジュアル化と出版物の多角によって業容の拡大を図っていた新聞社、ことに朝日との連携があった。

ニエプス写真百年祭

新聞社のアマチュア写真界に対するアプローチ、つまり懸賞や写真競技会の開催と写真展などの文化事業も20年代を通じて、より活発になっている。

朝日新聞社では23年の春から夏にかけ、英国の肖像写真家E・O・ホッペのゴム印画189点を集めた個展を東京、大阪、神戸、名古屋で開催。7月には、写真界の動向をまとめた『日本写真年鑑』を刊行している。この編集を担当した成沢が、福原に始めて出会ったのは本書への協力を依頼するためだったというから、これを機に彼のアマチュア写真界への接近が急速に進んだのだろう。

成沢は、現在でいうビジュアルジャーナリストの先駆者というべき経歴をもっている。信州上田で生まれた彼は、10代で内村鑑三に私淑。06(明治39)年に29歳で渡米すると、オレゴンで日刊邦字新聞「央州日報」や「ヤマトグラフ映画社」を経営した。この間に写真を始め、アメリカの写真雑誌のコンテストでは2、3度入賞もしている。7年後に西海岸の日本人移民を撮影した1万2千フィートにおよぶ映画フィルムを携えて帰国し、全国を講演して歩いた。

成沢は寄稿をきっかけに、18年(大正7)年に東京朝日新聞社の調査部に入社、5年後の1月に日刊写真新聞「アサヒグラフ」が創刊されると技術部長に就任した。同紙は第1次大戦中に、ロンドンの「デイリー・ミラー」、ニューヨークの「デイリー・ニューズ」などの絵入り新聞が100万部を超えたことを受けて企画されたのである。『アサヒグラフ』は四六判の判型で16ページ、定価は3銭。実売は3万部ほどだったという。注目すべきは、創刊時に総額1万円という高額な懸賞写真を募集し、それを何度かに分けて大きく紙面に掲載していることだ。まだ写真部が手薄なこのころ、写真新聞に必要な写真素材をアマチュア写真家らによって、ある程度まかなおうとしていたのではないか。

とはいえこの日刊写真新聞という斬新な試みも、関東大震災によって7カ月で終わった。翌々月には編集体制を縮小再編し、「アサヒグラフ」は週刊画報誌として再出発することになり、成沢はグラフ部長としてその編集を任された。

彼が『ブリティッシュ・ジャーナル』の記事を見て、一大イベントを思いついたのはちょうどこの時期だった。そこにはロンドンとパリで、ジョセフ・ニセフォール・ニエプスによるヘリオグラフィー発明記念の行事が開催されたと書かれていたのだ。これに発想を得た成沢は、大阪朝日新聞社の新聞整理部長で関西写壇とも近い大江素天とともに、社の力を結集した一大イベントを企画する。

そして25年10月末から11月にかけ、大阪と東京で「ニエプス写真百年祭」は、震災後の写真界の期待を一身に集めて開催された。それは11月8日の日比谷公園の野外音楽堂での「東京の部」の開会式に、1万人以上の観衆が詰めかけたことでもわかる。1週間の会期に詰め込まれた内容も豪華だ。4カ所では各写壇や写真史をたどる展示などが開催され、昼には大講演会や写真競技会が、夜には帝国ホテルで大懇親会がもたれ、さらにこの年に放送が開始されたラジオに成沢が出演し、写真史についての講演も行われた。終了後、その詳細は12月に発売の「アサヒグラフ臨時増刊 写真百年祭記念号」に詳細に紹介されている。

そして、この「ニエプス写真百年祭」の高揚感がいまだ残る11月にまず全関西写真連盟が、翌26年2月には全関東写真連盟が設立された。二つの連盟に集った団体は約420に上り、彼らを後援するメディアとして「アサヒカメラ」が誕生。さらに本誌を媒介として、その年末に全日本写真連盟が誕生した。

大正期の芸術写真による「写真ルネッサンス」は「アサヒカメラ」の誕生によってそのピークに達し、本誌はまた新しい写真の時代の受け皿として機能していくことになるのである。