子供の頃、お盆は毎年母方の祖父母が住む広島県北西部の筒賀村(現在は安芸太田町)に行っていた。近所に同年代の子供がいないので、ふだんは放課後がつまらない私も、このときばかりは年が近いいとこたちと毎日遊べるのが楽しみだった。
昼間のミンミンゼミ、夕方のヒグラシ、時折聞こえる鳶の声。夜は周りにたくさんある田んぼで大合唱するカエルの声。大人たちのおしゃべり。もちろん私たちの歓声もある。田舎の夏は、郊外の住宅街の自宅周辺より、ずっとにぎやかだった。
みんなで食べる夕ご飯を作るのは母と東京育ちの叔母。ふだんと変わらない料理はすっかり忘れたが、お茶の味は印象に残っている。
水色は茶色がかった緑色で、ほうじ茶みたいに香ばしく、独特の旨味がある。ふだん家で飲んでいる緑茶の味とも、もちろんほうじ茶や麦茶とも違う。あの不思議な味は何だったんだろう、という謎が解け始めたのが30代後半を過ぎてから。
最初は、サラリーマンと専業主婦の核家族、という昭和の典型を行くわが家を手掛かりに、食卓の戦後史を描く『うちのご飯の60年』の取材で、母から、子供の頃に飲んでいたお茶は自家製だったと聞いたこと。
次は2014年まで飛ぶ。台湾に旅行した際、初めて間近で茶畑を見たのである。台北郊外の地下鉄終点から、さらにロープウエーに乗ること30分。その日は肌寒い春先の雨の日で、硬い椅子に座っていると、体がどんどん冷えて疲れてくる。ようやく辿り着いた猫空は、山間の茶畑のある場所とガイドブックにあった。
ところが周りは観光客目当ての飲食店ばかり。茶畑はどこ。さまよっている間に、農家の庭先へ出る。こんなあぜ道みたいな道にお邪魔したら悪かろう。あきらめて、飲食店エリアまで戻った頃には疲れ果てている。
すると、長い髪の毛の優しそうなお姉さんが、大きな犬の散歩から連れ帰ったところへ出くわした。目の前の店は、お姉さんが働く茶館らしい。
勧められるまま入ると、2階はぐるりとガラス窓が囲み、山の緑がよく見えるカフェになっている。お姉さんがエアコンを入れてくれる。店内には、鍋を囲んで話し込む地元の人らしい中年夫婦客しかいない。しとしと降る雨の中、シュンシュンと沸くお茶と、微かに聞こえる外国語の響きが心地よい。
小一時間ばかりひまわりの種などをお供にお茶を楽しんだ後、お姉さんに「日本人ですか?どこから来た?」と聞かれ「東京」と答える。パッと目を輝かせ憧れの表情になるお姉さん。親しげな表情に勇気を得て「お茶の木が見られるところはありますか?」と聞いてみる。
すると、店の前の庭に案内してくれる。お姉さんが指差した木々は、日本でよく見る円柱型の茂みではなく、深緑色の小さな丸っこい葉っぱがついた枝を広げた、小さな木だった。
パラパラ植わっているお茶の木を見たときに、蘇った風景がある。三十年以上も昔、田舎の家で遊びに出かけるときに使った裏口。その手前、納屋の向かいに野菜畑が広がっていた。トマトやらナスが生っている畑の端っこに、同じような深緑色の小さな木立が確かにあった。
茶葉は祖母の自家製だった。その後の製造法にも秘密がある。最近知った、その謎に迫るのは次週までお待ちください。
初出:日本経済新聞夕刊2017年7月28日