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時感旅行 5

2019-08-24||阿古 真理

戦争や災害・事件。悲劇は繰り返し起きる。
しかし、傷を負った人にも町にも、明日は訪れ、
寝て起きて食べて働く日常がつづいていく。
ときには、日常があること自体が生きる支えになる。
第二次世界大戦が、「ついこの間」だった頃の
東京は下町の風景の日常を眺めてみよう。

東京・下町の休憩時間。

 のどかな風景である。1955年の東京は浅草、隅田公園で今用ベーカリーというパン屋の店員の男女2人が休憩中である。大八車を改造した屋台の箱に、パンを積んでいるのだろう。
いつものように屋台を引いて行商していたら、隅田川端でばったり同僚と会い、思わず話し込んでしまったところを撮られたのかもしれない。笑顔の男性は、何かうれしいことでもあったのだろうか。女性はすっかりくつろいだ姿勢で彼の話を聞いている。
 21世紀の今は、車の内部を改造して厨房にした、ネオ屋台と呼ばれるキッチンカーが都会の町を行き来する。移動販売のパン屋さんも健在である。家賃が必要なビルや一軒家など建物に店を構えるほど開業資金がかからず、得意先のところや人が集まる場所へ身軽に行ける、この手の商売をはじめる人たちは、いつの時代もいる。
2015年現在、当然のことながら、彼らが使っている車は自動車である。しかし、高度成長期後半以降にモータリゼーションの波がくるまで、移動販売の屋台といえば人力で動かす大八車のものだった。
2人の店員は、客寄せするために鳴らすベルを手にしている。豆腐店などとともに、パンを売る呼び声も町の音風景の一つだったのだろう。
 奥に、川端でくつろぐ人びとの姿が見える。彼らの存在も、この写真をのどかに見せるのに一役買っている。幼児を抱いた女性は、船か鳥でも見つけたのだろうか。左のほうを指して子どもに教えている。座っている男性たちは、仕事の合間に休みにきたのかもしれない。
 女性店員の後ろに生える桜はまだ若木である。隅田川といえば桜の名所。その桜の、今とは違う幹の細さが、1945年3月10日未明の東京大空襲の後で植えられた樹ではないかと気づかせる。東京の東側、下町一帯はこの大空襲で焼け野原になった。隅田公園には大勢の人々が避難してきたが、飛び散る火の粉で亡くなった人も多い。隅田公園は空襲で亡くなった人たちの仮埋葬所にもなった。
 悲惨な記憶を留める場所でのんびりくつろぐ人びとは、重たい過去を背負いながらも日常を10年積み重ねて生きてきた。この時代の大人たちは、のどかな時間のありがたさをよく知っている。
 右の写真は同じ浅草だが、撮られたのは1951年。日本はまだ占領下にあり、復興が本格化したばかりの時期である。
茶店の暗い店内でくつろぐ女性は、水商売で働いているのだろうか。左の写真と同じく休憩中の一場面でも、彼女の顔にはどことなく緊張感が漂う。それは、6年後という戦後の期間の短さのせいかもしれないし、これからが仕事というタイミングに写されたからなのかもしれない。
 彼女のヘアスタイルは戦後流行ったパーマネントのもの。今はサザエさんのトレードマークとして知られる。きれいに化粧をして、かわいらしい飾りのついたブラウスとスカートを身につけている。テーブルには、飲んで空になったジュースのグラスが置いてある。
 浅草は、戦争を挟んで高度成長期頃まで、映画館や寄席や大衆劇場が集まる日本屈指の繁華街だった。空襲で焼け野原になった後でも、次々と仮設店舗の飲食店ができて、復興へと向かう人びとが集まった。
しかし、テレビが普及し、東京西部の郊外住宅地が急速に発展し、ターミナルとしての新宿や渋谷に人が集まるようになると、東の浅草は衰退していく。暗い店で少し緊張しながらくつろぐ彼女の姿は、華やかな過去と寂れていく時代の間という1951年を象徴している。
 左上の壁に挿してあるのは、浅草の鷲神社などで開かれる祭り、酉の市で売られる商売繁盛のお守りである。どんなときでも、明るい明日を願ってやまない人々の心情を、福をかき寄せるという熊手が映し出している。

掲載写真
長野重一「パン屋さん」 東京 隅田公園 1955(昭和30)年
「茶店で憩う女性」 東京 浅草 1951(昭和26)年

初出『TRANSIT』(講談社)2015年春号