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郊外住民の2世たち

2021-12-06||阿古 真理

夫の父の一家が、傾いた家を立て直そうと宮崎県から大阪に出たのは昭和初期。しかし、間もなく長い戦争の時代が始まる。姉が泣いて止めるのを振り切り、子供だった義父は「おなかいっぱい食べられるなら」、と満蒙開拓青少年義勇軍に入った。

幸い義父が彼の地へ赴く前に戦争は終わり、やがて結婚し息子2人を授かった。義父が満州へ行けなかったことに、私は感謝するほかない。

今も昔も、人は苦しい生活から抜け出すため新天地へ赴く。日本の場合は山間地が多く、田舎が養える人数が多くないことが大きい。

都会への流入が最も激しかったのは、高度成長期である。「金の卵」と呼ばれた集団就職の若者をはじめ、たくさんの人が故郷を離れた。

人の大移動を引き起こした経済の急拡大は、敗戦国が世界第2の経済大国にのし上がる道のりだった。その間、どれほどの無理が必要だったのか。弊害の一つとよく言われるのが、共同体の崩壊である。

しかし、それは崩壊というより、育たなかったというほうが実情に近い。移住者たちは都会から溢れ出し、郊外に開かれた新しい町に住まいを構えた。言ってみれば、ニュータウンは都市型開拓村である。

その土地はもともと田舎である。共同体はあったはずだが、バラバラの土地から集まった、多過ぎる移住者を受け入れるのは難しかった。また、共同体は地元で仕事も生活も一緒くたの付き合いの中で成り立つ。都心で働く一家の主や、専業主婦またはそこに進出した工場やスーパーで働く妻は、地域と切り離されている。地元に何ももたらさない新住民を、旧住民は受け入れようがないし、住む機能だけを求める新住民同士が共同体を作ることも難しい。

地元の学校に通う子供が、唯一つながりを作る。そこで人間関係を築く親子も中にはいるが、多くの子供は、成長すると遠く離れた学校や職場へ向かい、地域から出ていく。

その子供は、父が何か分からない仕事で出勤する背中を見、台所の周辺で暮らす母を見て育った。チェーン店ばかりで、店員に顔や名前を覚えてもらえることも少ない。浅い人間関係しか持てなかった故郷に、未練はなかったかもしれない。

私もそんな郊外育ちの1人である。若い頃は、友人、先生、同僚といった関係が明確な相手以外と、どんな風に接したらよいか分からなかった。

私の場合よかったのは、26歳で家を出た後、大阪や東京の商店街がある町を選んで暮らしたことだ。気さくな商店の人たちに育てられ、お互いが仕事も生活も背負った人間同士として接する作法を覚えることができた。今や、どこへ行っても店の人とおしゃべりを楽しむ。常連客にもなれば、暇なときなど20分も30分も話し込んでいるときがある。

最近増えた地方へ移住する若者の中には、丸ごとの人間として付き合う田舎暮らしに憧れて、という人たちがいる。地元に入り込んで仕事をし、家族を作る人もいる。何世代にも渡るしがらみの重さに耐えかね出ていった世代からは、想像し難いことかもしれない。もしかすると、親が一つの共同体での関係をリセットしたおかげで、子供が無邪気に共同体に飛び込めるのかもしれない。

次の世代は新しい芽を育てようとしている。それはまるで、更地に植物が芽吹くのを見るようである。

 

初出:日本経済新聞夕刊2017年9月1日