レイヤーケーキ、デビルズフード・ケーキ、ジンジャーブレッドマン、クリスマスプディング、アプフェル・シュトゥルーデル、パルフェ、カトルカール、デーツスクエア、ヨークシャープティング……。
以上は、私が1980年代にレシピ本で知ったヨーロッパやアメリカのお菓子の名前。しかし、そのほとんどをいまだに食べたことがない。
小学校4年生からお菓子作りにハマっていた私は81年、入った私立中学の図書室にレシピ本コーナーがあるのを発見し、大喜び。次から次へと借り出しては、気になった未知のお菓子のレシピをノートに書き写していった。しかし、そのほとんどを実際には作らなかった。
何しろ、当時はショートケーキやアップルパイしか食べたことがなく、レシピ本に載る多くのお菓子が、どんな味か想像もできない。仕上がりをイメージできないお菓子を作る勇気は、臆病な私にはなかった。
作らなかった理由はもう一つある。分からないものを、分からないまま放っておくと、「いったいどんな味なんだろう」、と想像を巡らし楽しむことができたからである。
大人になってから、何かの拍子に、本物を知る機会が訪れるようになった。あるいは食文化の本を読んでいるときに、解説を見つける。偶然みたいに、運命みたいに、謎が解ける。私にとって、その瞬間の感動は、一生懸命調べて「分かった!」と発見する喜びより実は大きい。
無精者の言い訳でもあるが、あんな風に謎を放っておけたのは、幸せな時代だったのかもしれない、とこの頃考える。今は知りたいことを調べるのも仕事のうちだし、簡単な内容なら、インターネットで検索すれば即座に分かってしまう。
レシピには未知の食材もたくさん載っていたが、それらについては、どんなものかだいぶ分かってきた。
ナツメグやオールスパイスは、ケーキやクッキーのほか、肉料理によく使われる。今、私はこれらを台所に常備し、ハンバーグやトマト煮込みなどに使う。欧米で使われるブラウンシュガーは、サトウキビの汁を精製しないで煮詰めたもので、10年ほど前、製菓材料専門店で本物を確かめた。コアントローは、オレンジを材料にした酒である。
お菓子そのものと出合う機会は少ない。私が名前を覚えたお菓子の多くは、おそらくヨーロッパやアメリカ各地の家庭菓子で、懐かしの昭和風ケーキを売るケーキ屋はもちろん、流行りのお菓子を並べるパティスリーにも並んでいないからだ。
数年前、アプフェル・シュトゥルーデルを食べる機会があった。薄く伸ばした小麦粉生地に、りんごやレーズン、スポンジケーキのくずなどを巻き込んだ、おそらく中東にルーツがあるドイツ菓子である。食べたのは東京・代々木上原のチェコ料理店。ドイツに近い中欧圏のチェコにあっても、確かにおかしくはない。
初めて食べたそのお菓子は、思っていたより皮がカリッとしていて固かったが、火が通ったりんごと薄い生地のコンビネーションは予想通りに絶妙で、長年の謎が解けた喜びで満面の笑みになってしまった。
そのとき、一緒に食事をした女性たちとは出会って日が浅かったが、今や会うとおしゃべりが止まらず相談を持ち込むこともできる、かけがえのない友人たちになっている。
初出:日本経済新聞2017年10月20日夕刊