前回は、子供の頃、母方の田舎で飲んだ不思議な味わいのお茶は、祖母が畑で育てた茶の木から作っていたことが分かった話を書いた。今回は、そのお茶はどのように作られていたか、というところから始めたい。
求めていた答えは、先日読んだ『お茶は世界をかけめぐる』(高宇政光)という本の中にあった。
同書によると、広島県加計町には、江戸時代から続く釜炒り茶を作り続けている人がいる。茶葉を20秒ほど炒った後、筵で冷まして手で体重をかけながら揉み、陰干しする。翌日、再び釜で茶葉を乾燥させる。その後、ゴミなどを除いたら完成。
私がこの釜炒り茶は祖母のお茶と同じ、と確信を持ったのは、加計町は祖母が暮らした筒賀村の隣町だったからだ。合併した今は、どちらも安芸太田町である。
加計町には伯母の1人の嫁ぎ先があり、伯母や伯父たちは、交通が不便だった戦前戦後に加計町に下宿し高校に通ったと聞いている。交流が深い地域なのである。当然、食文化も共通していると思われる。
同書の作り方のくだりを読んだとき、脳内であの不思議に香ばしいお茶の味わいが蘇った。
実は母方の祖母との個人的な思い出はほとんどない。母は11人きょうだいの9人目である。夏に田舎に行くと、たくさんの大人がいたが、子供同士で遊ぶことに夢中になっていた私には、誰が誰やら分からず興味もなかった。家の主である祖父は、日向ぼっこしている好々爺に過ぎず、祖母はどこにいたかも定かではない。
祖父母が、電車を乗り継いで6時間もかかる私たちの家に来たこともほとんどない。アルバムの写真を見れば私や妹が幼い頃、一緒に奈良観光などをしたらしい、と分かる程度で記憶には残っていない。
祖母との唯一の思い出は、私が小学校4年生の冬に祖父が亡くなった後、訪ねてきた折のことだ。居間でくつろいでいるとき、そばに居た祖母は私に、「おじいちゃんを好きだと思ったことはいっぺんもなかったけど、いなくなると寂しいな、と思うんよ」とぽつりと話す。祖母は、思わず漏らした言葉で、異性を意識し始めた年頃の孫に、夫婦とは何かを教えてくれたのだった。
そんな風に実際は、あまり一緒に過ごせなかった祖母。しかし今、私の無意識の底には祖母の味がしっかり残っていることを知っている。
今、私は梅仕事だ、味噌作り教室だ、と手作り保存食にハマっているが、それは、もしかすると祖母の刷り込みのせいかもしれない。幼い頃に食べていた梅干しも、味噌も、祖母が作ったものだったからだ。
昭和前半、農山村はどこでも自給自足が基本で、味噌は家で仕込んだ。野菜や果物は、たくさん採れるが季節が限られているので、保存食にするのが当たり前だった。
だから、明治生まれの祖母は何でも手作りする人生を送った。そうして年を取り、何でも買える時代になっても、手作りをやめなかった。誰が誰だか区別はついていなかったかもしれないが、孫はみんなかわいいからと、ほうぼうで暮らす子どもたちの家へせっせと作ったものを送り続けたのではないだろうか。
あのお茶も、祖母が丹精込めて育てた作物から、手間ひまかけて作った一つだったのだ。祖母は1990年に84歳で亡くなった。もう飲めないお茶が懐かしい。
初出:「日本経済新聞」夕刊 2017年8月4日