この頃、商店街緒空き店舗や民家、古いビルなどに、ポツポツと新しい店ができている。発見を重ねるうち、それらの店が焼け跡の町に芽吹いた植物みたいに見えてきた。それは、その場所がある意味で廃墟だったからだけではない。
東京で暮らし始めて14年が経つ。来た頃は、不況のどん底だった。山一證券が倒産した記憶が新しく、ITバブルは始まっていなかった。世紀末の街で元気なのは、カフェだった。
東京のカフェ(喫茶店)ブームは、これで三度目である。一度目は、関東大震災後。二度目は第二次世界大戦後から高度成長期に移る昭和半ばの喫茶店ブーム。そして2000ね円前後。
一度目は、近代産業国家への転換期だった。二度目は軍事国家が終焉し、大量消費を伴った生活のアメリカ化が始まったときだった。古い日本を捨てるとき、カフェが流行る。今回は、第二の敗戦と言われた不況の最中で、横並びで新しさを競う価値観が過去のものとなる時期と重なる。
カフェブームは始まりだった、と思い至ったのは、去年の秋に資料と四つに組んで書いた本『昭和の洋食 平成のカフェ飯 家庭料理の80年』(筑摩書房)から解放され、急に街に出るようになったからである。
古いビルや民家を利用した小さな店は、今やカフェだけではない。花屋もあれば雑貨屋もある。洋品店、文房具店、八百屋、パン屋、セレクト書店。どの店もセンスがいい。サッシや看板を美しく塗ったパリ風の店もあれば、木目調で統一した店もある。古い建物を蘇らせた店主は、20~30代の若者が中心だ。
彼らは、時代に取り残されたビルや民家を、佇まいがいいと言い、磨り減った部分に味わいがあると喜び、積み重なった年月に思いを馳せて場所の成り立ちを愛する。古い建物と若い感性の出合いが、立ち寄りたくなる空間を生み出している。
どの店も情報発信を行うセレクトショップだ。売れるからとか、流行っているといった表ガンではなく、いいと思い、選んだものを集めて売る。雑貨はファッションビルにあるものより個性的に見えるし、実際、大量生産されていないものも多い。野菜は農薬を減らした産地直送品で、一番の売りはおいしいこと。大型書店で見過ごしていた文庫本に出合うこともある。こういう店で、何度うっかり財布を開いたことか。でも、「いいものですよ」という店主の力強い言葉のおかげか、後悔したことはない。
雑貨や花は暮らしにゆとりをもたらし、八百屋の野菜は体を養う。本は人の心を癒し育てる。どれも、モノが求められる原点を思い出させてくれる。大型資本の店でひととおり何でも揃う今の時代、こういう店はなくても成り立つが、あるとより生活が楽しくなる。便利さと安さを求めすぎて忘れていた、自分らしさや遊びの部分を取り戻そうと呼びかけているようだ。確かに街は焼け跡だった。その場所で、次の時代が動き出している。
初出:『東京人』2013年9月号