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「おいしい」の行方

2020-11-13||阿古 真理

以前、インターネットの飲食店情報サイト「ぐるなび」について、運営会社の社長が、集まる人数や駅からの距離といった検索条件の便利さを話す場面を、テレビ番組のインタビューで観たことがある。その際、私が違和感を抱いたのは、店を選択する基準に「おいしさ」が入っていないことだった。なぜ入らないかと言えば、おいしさを評価するのは難しいからだと思う。ミシュランの星は、専門家が判断して決める。メディアのランキングは、ファンの投票数が指標だ。信頼される基準が、プロの評価や数にあるのは、もともとおいしさが個人の主観で決まるものだからだ。客観的な評価を出すにはコストがかかるから、検索条件に入れづらいということなのだろう。
一方、別のサイトの「食べログ」では、たくさんの個人が、その店がおいしかったかどうかを投稿して星がつく。彼らは一般人なので、コメントにプロと同じ客観的な批評性を期待しにくい。知っている人なら、その人の好みから味を推測できるが、顔も知らない投稿者の基準は分からないので、参考にしてよいかどうかの判断が難しい。せいぜい「おいしい」と書く人が多いか、「まずい」と書く人が多いかで、店の水準を推し量るほかないのである。

この二つのサイトに限らず、インターネットには料理に関する情報が溢れている。SNSでは、絶えず誰かが食べに行った感想をアップする。料理した話も載っていて、作った料理の写真を上げる人もいる。クックパッドなど、料理の作り方を紹介するサイトもたくさんある。その中には、出版社や料理人などのプロが出す情報もある。既存のメディアも負けてはいない。テレビでは、一日中飲食店の情報が紹介されているし、料理番組だけでなく、情報番組などでも料理を実演して作り方を解説するコーナーがある。雑誌は専門誌以外も、料理の特集をしたり、料理に関するコーナーを設ける。新聞にもレシピは掲載される。

あふれんばかりの料理情報の海で、私たちは溺れかけているのではないか、と最近思う。例えば主婦が、人気店の味を再現しようとしたり、レシピに正しい味を求めようとする。食べに出かけた人が、人気店だから自分にとってもおいしいはず、と思い込もうとする。子どもの頃に覚えた母の味や、自分の味覚は頼りにならないらしい。それは、さまざまなメディアが、最大公約数のおいしさの基準を提示し続けてきたことと無関係ではないだろう。
一般の人にとって「おいしい」と感じる気持ちは本来、とても個人的で誰にも侵せないものである。分かち合う相手は、似た感性を持つ家族や友人だったはずだ。共感の時間の蓄積が、人と人の関係を育て、人生の充実感をもたらす。栄養補助食品の類だけでは味気ないと思うのは、おいしいと感じる幸せの瞬間を求めているからだ。大切な個人の感覚を誰かに明け渡してしまったら、情報洪水の中で自分自身を見失ってしまうのではないだろうか。

初出:『CEL』(大阪ガスエネルギー・文化研究所)2017年3月号