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原爆ドームの夏

2021-10-18||阿古 真理

1999年の夏、珍しく広島市へ出張する機会が2回もあった。子供の頃は、毎年夏の数日を伯母の家で過ごし、その後国鉄可部線で母の故郷へ行くのが恒例行事だったが、長じてどちらも縁遠くなっていた。

子供の頃、母からくり返し聞き、本や映画から教わった原爆の悲劇は、心に深く刻まれていた。6歳だった母はあの日、山の向こうに湧き上がるきのこ雲を見、その後3日ほどして幽霊のような姿の人々が村へ歩いて逃げてきたのを目撃している。

そんな広島に行くからには、原爆ドームは見学せねばなるまい、と行く。しかし、久しぶりに見た建物は、維持するための補強が分厚い化粧のようで痛々しく、子供の頃に見上げた威容は感じられなかった。

次は8月3日に行った。吸い寄せられるように、川の対岸の橋まで行って確かめた原爆ドームは、1カ月前とはまるで別ものだった。

川から地面から、何かが吸い寄せられるように立ち上って廃墟を覆っている。気迫に満ちたその姿は、「みすぼらしい」などと思った前月の自分を恥じ入らせるほどだった。

私には少しばかり霊感があって、遠くで亡くなろうとしていた人の声を聞いたこともある。だから、あのときの異様な雰囲気はやはり、被爆者の霊魂が記念日を前に集合していた姿ではないか、と思っている。

改めて戦下の暮らしを思う。日々の不便や空襲の恐怖、飢え、人間同士の確執、大切な人を喪う恐れ。そして、それらが残したトラウマ。そのトラウマは、その後の日本にどんな影を落としたのだろうか。何もかも、平和で経済成長著しい時代に生まれ育った私の貧しい想像力など、及ばないところにあるように思える。

その断絶を埋め、同じ過ちをくり返さないために、あるいはトラウマを乗り越えるために、体験者が語ろうとするのは当然のことだ。

しかし、受け手としての私の想像の手掛かりは、くり返し聞かされ、読まされ、見せられてきた空襲や戦闘の場面にはなかった。

それよりも、歴史を調べる中で知った暮らしに関わる事実に胸を突かれた。例えば亡くなった日本兵の6~7割が、餓死者だったこと。彼らは国や愛する人のために戦うことすらできなかったかもしれない。

それから、総動員体制で国内産業が大きく姿を変えたことを知ったとき。壮大な消費である戦争は、生産活動に大きな影響を与える。

大量のコメや大豆、麦を使う酒や醤油は、穀物節約のため糖類、グルタミン酸ソーダなどで増量され、戦後も製造が続けられた。「日本酒なんて、舌がピリピリするから苦手」という昭和期の三増酒のイメージは、戦争が遺した傷跡の一つである。

やがて、成長期に戦争をくぐり抜けたと思えるおばさま方の集団を町で見かけ、身長の低さに戦中戦後の栄養不足を重ねるようになった。

去年、そういう戦下の暮らしぶりを詳細に描いた映画が大ヒットした。片渕須直監督のアニメ『この世界の片隅に』である。

この作品が共感を集めたのは、詳細な取材に基づき、広島市で生まれ、戦時中に呉市に嫁いだ平凡な女性の日常をていねいに描いたからだろう。戦争が遠く思える現代の日本にいるからこそ、次世代に記憶をつなぐにはきめ細やかさが必要だ。遠い現実を引き寄せるのは、確かな日常の断片なのである。

 

初出:日本経済新聞2017年8月25日夕刊