自転車の乗り方を覚えたのは人並みで、4~5歳の頃だった。だけど、子供なりに苦労し、途中で何度も投げ出したくなった。
あれは何十回目だったか。バランスを崩して転び、半泣きになっていた私の横をすり抜けたおばさんがいた。その人の自転車の後輪には、左右に補助輪がついていたのである。「大人なのに!」と驚き、「私も一生あれでいい」と思ってから間もなく、私は自転車に乗れるようになった。
以来、自転車は日々の生活に欠かせない相棒である。通学や買いもののほか、直線距離なら近いが、電車だと別の路線に乗り換えるので面倒くさい、という行き先にも、自転車で行けば速いし運動にもなる。
東京に引っ越してからは、坂が多い町に住んできたので、ママチャリから車体が軽いカゴ付きスポーツタイプの自転車に乗り換えた。6段階の変速ギア付きである。
東京の坂には、腹が立つことがある。なぜなら、苦しい上り道の後、山に到着しないで、下り坂が始まるからである。なぜ、せっかく上ったのにすぐ下るのか。そしてその先にまた上り坂が見えるのか。六甲山脈を臨む町で育った私にとって、坂道とは、木々や土の道や鳥の声と共にある、山に続く道のはずだった。
でも、東京には坂が多いからこその楽しみもある。それは真冬。長い坂道を自転車で下るとき、耳から自分が起こした風がビュンビュン鳴るのが聞こえる。両手でしっかりサドルを掴み走っていると、まるでスキーをしているみたいな気分になる。
先日、自転車に乗り慣れていて本当によかった、と思う体験をした。夏休みを取って行った小豆島で、レンタカーを借り損ね、半日自転車でウロウロしたのである。
小豆島は若い頃から気になっていて、一度は行きたいと思いながら長く縁がなかった島である。
ぜひ行きたかったのが、棚田百選にも選ばれたという「中山の千枚田」だった。レンタル自転車を借りる際道を尋ねると、「自転車で行くんですか?」、と島の人がたじろいだわけは、間もなくわかった。すぐ終わる東京の坂なんて子ども向け、と思うほどきつい上り坂が続くのである。
電動アシスト自転車だから、乗ったまま上れるとはいえ、息が切れる。途中で何度も休憩しては、水をガブガブ飲んだ。子供みたいに「もう無理!」、とその場にへたり込んで泣き喚きたくなる。
それでも稲がすくすく育っているであろう棚田を見たくて、やっとたどり着く。こんなきつい斜面に田んぼを開き、手入れをしてきた人たちに、素直に頭が下がる……という感慨に浸るためにも休憩したい、と食堂に行ったら、1時間半待ちと言われる。「とにかく昼飯を食べたい」という夫にうながされ、坂を下った。
その後、またしても坂の上にある道の駅に行く。お土産を買い揃え、下る坂の道が素晴らしかった。眼下に、白っぽい道と真っ青な空と海が広がる。勢いよく下りながら、わけもなく「好きだ―!」、と叫びたい気持ちが込み上げる。
坂が多い町は、風景の変化が楽しめる町でもある。視線の高さが変わり、つい先ほどまで見えなかった景色が表れる。坂の上から町全体を見渡す。世界の広さを改めて感じることで、ちっぽけな自分や自分たちの暮らしへの愛おしさが呼び起こされるのだと思う。
初出:「日本経済新聞」2017年9月15日