飲食店の常連になる魅力は、好きなときに行って、どうでもいい会話ができるところである。毎日通う職場や学校がある人なら、同僚とそういう会話が気軽にできるかもしれないが、家が職場のフリーランスになった私は、そういう居場所をずっと求め続けてきた。
大阪時代は、友人が営むギャラリーに顔を出し、気軽に会える友人を呼び出しておしゃべりに付き合ってもらい、乗り切ることができた。問題は東京に来てからである。
友人もなかなかできなかったし、本当にたくさんのうまくいかない出会いと、その結果の別れがあった。安いチェーンのカフェが増え、古い喫茶店が消えた時期とも重なり、常連になれる店は見つからなかった。
2年前に引っ越してきたこの町で、着物屋を改装した小さなカフェを見つけたのは夫だった。マスターがていねいに淹れるコーヒーを夫が、有機レモンを使ったはちみつレモンを私が気に入った。何より、店主夫婦の気さくさがいい。奥さんのニャン子は警戒感を抱かせず、常連客たちを会話に巻き込む達人だ。
すっかり常連になったある日、テレビで「ローマの休日」をやっていた。オードリー・ヘップバーン演じるアン王女が分刻みのスケジュールにキレ、ローマの町に逃げ出す場面にひどく共感したのは、とにかく忙しい時期だったからだろう。
翌日、夫を誘って店に行くと、マスターとニャン子に訴えた。
「昨日、『ローマの休日』を観て。私も今日は逃避行なんですよ。ジェラートを食べていた王女の真似をして、締切の嵐からここに逃げるの」
「ジェラートありますよ!」と、ニャン子が言う。壁のメニューを確認し、「そうだ、ジェラートあった!」、とすぐにうれしくなる私。
「いやんなりますよねー」と相槌を打つニャン子たちも、多忙が苦手である。料理がおいしく雰囲気のいい店は、一時期客が殺到し、過労気味になった夫婦は、「1日中は無理」、と昼の数時間を閉めるようになった。
ある日、私たちが夕食を食べようと入ったら、店先の黒板にC定食が「オリーブオイル」としか書いていなかった。夫が「Cは売り切れたの?」と聞くと「ありますよ!」とマスター。黒板にメニューを書いていたとき、急に土砂降りになり、「やんなっちゃった」からとニャン子が笑う。
私たちは大笑いし、夜も半分過ぎたというのに、マスターは律儀に外へ続きを書きに行った。
ニャン子はこのように、ときどき予想外のマイペースさを見せることがある。まじめなのに適当な印象を抱かせるところが、人をくつろがせるのだと思う。東京では、関西のようになかなかボケとツッコミのある会話がしづらいが、この東京育ちのマスター夫婦には、簡単に冗談が通じる。そのせいか、最近、店の関西人比率が高くなってきたらしい。
関西人だけでなく、外国出身の常連もいる。お年寄りも若者も子供もペットも、働き盛りも、主婦も、店でくつろぎ、ふとしたきっかけでニャン子を中心に会話が弾む。
こういう空間が東京都内にあるのは、奇跡のようだが、実は皆言わないだけで、あちこちに隠れているのではないかとこの頃思う。それぞれ稀有なキャラクターのスタッフがいて、客と一緒に癒やしの避難空間を、大都会の片隅にこしらえているのではないだろうか。
初出:日本経済新聞夕刊2017年11月10日